「おっさんずラブ」で描かれた純愛とはなんでしょう
それは、恋が生まれる前から始まるラブストーリーだったのではないかと思うのです
あらゆるジャンルで「ラブストーリー」は描かれています
恋は自明のものとして存在し、「ラブストーリー」に描かれるのは、恋の周辺に生じる感情で、その感情を引き起こす事件や事故です
そんな中で、春田は「恋をする」ということそのものを、その感情に名前がつく前から、感情が形になる前から、口をついて出てしまう言葉や、動いてしまう身体で伝えてくれたように思います
牧君や部長の恋心は、最初から「恋」だとわかっているので、切なかったり、嬉しかったり、悲しかったり、気持ちを共有することができました
でも、春田の心は掴み所がなくて、観ていて翻弄されるばかりです
それは、春田自身がそうだったのだと思います
何故か「牧と一緒にいたい」と思い「一緒に過ごした時間を忘れたくない」と思う
自分から離れようとする牧君を引き止めてしまい、付き合ってくださいと言われれば「はい」と答えてしまう
部長には「恋愛感情じゃないんです」と言っているのですから、牧君に対しては恋愛感情を抱いているという自覚は芽生えたのでしょう
でも、ちずちゃんに「うん」と答えた春田の「好き」は、牧君のそれと同質か?というと、まだ残る曖昧さ
けれども、どの時点においても、春田の「好き」に嘘はなかったと思います
牧君は「春田さんは何も見えてない」と言いましたが、春田は自分自身の心も見えていないのに、牧君だけを見て、ずっとずっと牧君に応える努力を続けました
ただ「好き」の段階というか、成熟が違っていたのだと思います
一年の時間を経て、春田は牧君に追いつきます
ラストシーンでは、同じように相手を想い、求め、応えることのできる二人になっていました
「お姫様はお城で幸せに暮らしました」のようなエンディングではなく、どのような条件にも左右されず、恋というものが成就する瞬間までを描ききっています
「おっさんずラブ」の純愛は、他の作品やジャンルを引き合いに出して語られるものではなく、恋そのものを描いたものなのだと思います
とはいえ、恋が生まれ、その名前で呼ばれるようになったところまで、が今作なのかなぁと思うのです
これはスタート地点ですよね
まだ、二人の行く末には様々な出来事があると思うのです
続編を観たいなぁと思うのです
あと、「おっさんずラブ公式ブック」の吉田鋼太郎さんのインタビューを拝見して思ったことです
私は、この作品がとても好きで、登場人物も世界も好きで、それらを失いたくないという気持ちで続編を望んでいたのですが、吉田鋼太郎さんは田中圭さんという役者の価値と可能性という意味から続編のお話をされていました
それは、「あれはどうなる?」「誰はどうする?」というお話としての続きではなくて、田中圭さん演じる春田創一の生きている世界が続くという観点なのかなぁと思って
私は、続編が叶ったとしても、「おっさんずラブ」が自然と提起した「人を愛することで手に入れられる幸せを、どういう条件の元でも誰でもが得られるように」という部分で残るいくつかの問題を描ききれば、このお話は終わるのだろうと思っていました
けれど、吉田鋼太郎さんの観点はもっと深くて広くて、この作品にはもっともっと可能性があると語っていらっしゃったように感じました
とても驚きましたし、嬉しくて、続編への希望がまた強くなりました
このブログを書くことになった、きっかけ、最初の記事です
とにかく続編を望んで望んで始まってしまったブログなのです
私が描き切ってほしいと思った、春田、牧君に手に入れて欲しいと思った幸せの形の書き殴りなのですが、よかったら ↓