「火花」の感想を今更

おっさんずラブ」とも田中圭さんとも関係ないんですけど

どこかに書いておかないと忘れそうなので、又吉直樹さんの「火花」と、林遣都さん、波岡一喜さんのドラマ「火花」、両方読んで、観て思ったことを

 

ドラマ「火花」のラストの徳永の気持ちがよくわからなくて、ドラマも原作もご存知の方から読むことをお勧めいただいて読みました

そのときに、小説「火花」のラストは、どこか「人間失格」を思い出すなぁと思ったのです

 

「火花」のラストシーン、徳永はガラス越しに神谷を見ています

この「ガラス越し」という距離に、「人間失格」の冒頭の語り手と大庭葉蔵の写真を思い出したのです

「火花」ではラスト、「人間失格」では冒頭

「火花」では浮かれ騒いでいる神谷、「人間失格」では写真の葉蔵という「動」と「静」

「火花」では芸人としての道を断たれながらも夢を捨てない神谷、「人間失格」では生きながら死んでいるようだと評される葉蔵という「陽」と「陰」

この対比に、ハッとしたのだと思います

 

内容にまで対比があるかというと、それはわかりません

芸人失格を描くことで人間失格を描いているのか?と言われると、んー、わかりません

ただ、徳永は決して芸人として復活することのない神谷を、ただ「生きている」ということで奇跡と感じ、受け入れています

それが「人間失格」へのアンサーだと考えることも可能かなぁとは思います

 

ただ、ラストの徳永の気持ち、特に「素人漫才大会に出るのか?」「二人で漫才を始めるのか?」ということについては「ない」という結論が出せました

神谷が話していた「最高のボケ」は「漫才の才能を持ちながら野菜を作っている人」ではなく、神谷という人間、生き様だったのでしょう

「芸人としての最高の情熱と覚悟を持ちながら、それを生かす術を全く持たない」という最高のボケ

「神谷さんは生きているだけでいいんです」というのは、もしかしたら「最高のボケ」に対する「最大級のツッコミ」なのかもしれません

 

もう少し、つらつら思うこともあったのですが、「火花」も熱心なファンの方が多いですし、「人間失格」はバイブル格ですし、私に書けることはこれくらいかなぁ

また、いつか読み直してみたいです