けもなれ 京谷鑑賞倶楽部会員なんだけれど、なんだか脱線した話

今日、美容院で出された「VERY」の記事で、お勧めの書籍に小川たまかさんの「「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。」という本がありました
その記事の書評を読んだだけで、本の内容は読んでいないので、本の感想ではありません
ただ、タイトルにとても惹かれる、というか、胸を抉られる感じがあって、つらつら考えているうちに、「けもなれ 」の“引っかかる部分”と呼応するところがあるような気がして、それを書きました
なので、本とも関係ないし、「けもなれ」とも関係ないかもしれないんですけど
 
「ほとんどない」ことにされている側と「ほとんどない」ことにする側を、自分にわかりやすくすると、例えば
差別される人とされない、あるいはされている自覚がない人
(犯罪被害に遭ったことがある人と、遭ったことがない人もあると思うし、自然災害でも「なかったことにされた」時点で新たな人災被害者になるとは思いますが、それは別として)
ある人たちが少数で、ない人が多数なために「なかったことにする社会」が可能なんだと思いました
ただ、多数派の人たちも、ひどいニュースを耳にしたり、あるいは痛ましい出来事を目にしたりする時は一人でそれに直面しています
一人でその事実に向き合おうとして、でも「限界」となったときに、初めて一人の人だったはずの人が他の人と手を繋いで多数派になるんだと思います
もう見ていたくありません、限界ですとなったときに駆け込む多数派の場所は、その人にとっては安全地帯なのでしょう
その安全地帯に駆け込むまでの我慢の時間は人それぞれだし、駆け込んだ後、忘れたふりをするか、正当化のための攻撃に出るのかも、人それぞれだと思います
多数派の正義は、多数派の人全員が同じものを持っていて、せーので出しているわけではなくて、一人一人がある時、それを必要として、切ってくるカードなのではないかと思いました

で、一体どう繋がるんだか「けもなれ 」の話です
パワハラの社長も、優しい京谷もどちらも「ほとんどないことにする側」です
それがひどい現実と、ひどい現実からの逃げ場の両端で機能していたから、晶はどこへも逃げられなかった、あの職場、ああいう社会にい続けることができたのではないでしょうか
京谷は晶が会社辞めたいと言えば、辞めたらいいと言うと思うし、疲れたと言えば大変だねと言ってくれると思いますが、結局は「よしよし」ってしてくれるだけで、現実を変えようとか、そういう方向に晶を向かわせる力にはなりません

では、恒星はというと、今のところ実質的になんの役にも立っていないような気がします
一瞬、晶に(恒星自身にも)「自分が変われば世界は変わる」かのような幻想を見せたけれど、二人して挫折してしまいました
読むと少しスッキリする自己啓発本的な存在にしかみえず、それは京谷と同じく「ほとんどないことにする側」の安全弁です

京谷も恒星も、最終回どうなるのかなぁ?
現実的に有用な京谷だけど、考え方を改めたところで、晶にしてみれば古いソファーみたいなものかもしれないし
恒星は実質を伴うパートナーになれるのでしょうか

「けもなれ 」から戻って、何が言いたかったかというと、個人を追い詰めるのも社会なら、追い詰められた個人が駆け込む場所もその社会が用意していたりする構造があって、それが「無かったことにする」ことを可能にしているのかなぁっていうことです
それが「けもなれ 」のパワハラ社長と京谷であるなら、晶は京谷とやり直してはいけないなぁ、京谷が変わったとしても
でも、変わろうとしても晶とやり直せない場合、京谷はどこへ行ったらいいのでしょうか
あなたは間違っていると糾弾されて、傷ついて、「よしよし」してくれる誰かのところへ行ってしまったら、「無かったことにする社会」の再生産でしかないわけです
あ、でも、京谷には千春さんがいるし、大丈夫かなぁ

一番考えたことは、多数派といえど個人で、それを忘れてしまうと、無かったことにする社会を再生産する構造を、ただ強化するだけになるんじゃないかってことでした