「カササギ殺人事件」アンソニー・ホロヴィッツ著 の感想 その一

感想なのでネタバレしています

 

小説内小説である「カササギ殺人事件」は、面白かったです

どっぷりアガサ・クリスティを読んでいる気持ちで読める上に、クリスティを読む時に感じる苦痛がなく、その時代の景色、人間像、ストーリーを十分に楽しめました

クリスティ作品には現代とかけ離れた階級意識による倫理観が見えます

例えば、貴族によって虐げられた下層階級の犯罪者が悲惨な末路を辿るとき、クリスティは彼らの動機を「逆恨み」と言い、彼らの最後を「自業自得」と書くことがあります

病気や障害に対する偏見も、その時代故ですが色濃く、読んでいると辛くなることがありました

カササギ殺人事件」では、例えばダウン症に関する記述など、まさにこの時代に新たな知見から啓蒙活動があったことを受けてか、差別や偏見があってはならないものとして描かれています

 

小説「カササギ事件」を内包する、本「カササギ事件」はどうだったかというと、どうにも腑に落ちないというのが正直な感想です

 

理由の一つは、本「カササギ殺人事件」は小説「カササギ事件」の本歌取りとしての面白さは抜群なのですが、それを抜きにするとそれほど目新しい何かがあったとは思えないこと

小説「カササギ殺人事件」はアガサ・クリスティ本歌取りですが、こちらは他者の作品を精緻に組み込んだ素晴らしいお話です

しかし、本「カササギ殺人事件」と小説「カササギ事件」は同じ作者の同じ作品内での本歌取りなので、なんとなくお手盛り感が否めない気がするのです

そんな風に断罪するには、あまりにも素晴らしく考えぬき磨き抜かれた作品だということはわかるのですが、小説「カササギ殺人事件」部分が面白すぎたということでしょうか

 

理由の二つ目は、アランの仕掛けたアナグラムの答えです

作中作者であるアランの全てのミステリーに対する答えがこの冒涜的な言葉である

というオチは、本「カササギ殺人事件」のオチに他ならないのです

いくら登場人物であるスーザンが激怒して見せても、作者アンソニーホロヴィッツがこの言葉を作品の焦点に持ってきたことは変わりません

ミステリーの面白さは謎であって、動機ももちろん謎の一つです

そこにどれだけの面白さを用意できるかは作品の見どころの一つだと思います

それが、これかぁと、とても残念に思いました

うがって考えると、小説「カササギ殺人事件」と本「カササギ殺人事件」の質の違いは時代の違いであり、本「カササギ殺人事件」のオチの下品さは、現代の軽薄さや品のなさを表しているのかもしれません

小説「カササギ殺人事件」から、その時代にあったはずの悪習悪癖が取り除かれている分、そのようにも感じました

 

三つ目の理由は、スーザンの転向です

仕事と結婚の間で揺れていたスーザンは、事件後はロンドンを出版界を去り、アンドレアスに従ってギリシャの彼のホテル経営の手伝いをすることになります

職を失い、友人を失い、後遺症を追ったスーザンにとって他に選択の余地はありませんでしたし、事件を追う中でアンドレアスとの関係を見つめ直した結果でもあり、また濃密で過酷な体験に空っぽになっている状態故でもあるとは思います

ただ、なんとなく「羊たちの沈黙」のクラリスを思い出してしまうのです

ずっと以前に読んだので、ほとんど忘れてしまったのですが、初めの頃のクラリスは「ライオンの子供」と表現されていました

でも、最後に彼女がライオンになることはありませんでした

クラリスの場合、彼女の人間性そのものが変わってしまったわけで、人生の岐路に立ち、一つの選択をしたスーザンはクラリスとは全然違います

ただ、あまりにもこちらの道に進む以外にない展開に、かえってスーザンが手放したものの方が心に残ってしまいました

とはいえ、スーザンの人間性を考えると、あのままホテルの手伝いで終わるとも思えません

視力が回復したら何か始めるかもしれないなぁとか、回復するまでもなく、アンドレアスを巻き込んでそれこそギリシャのトミー&タペンスとして、再びの探偵仕事に飛び込むかもしれないなぁと、ちょっとわくわくするところもあるのです

 

作品全体の感想は以上です

あとは、こまごました疑問とか思いつきとか考察などを明日以降書こうと思っています