浅田次郎「流人道中記」を読んで(ネタバレしています)

いつまでも頭を離れないのは、玄蕃の

「のう、乙さん。俺は臭かろう」

です

「臭いか?」ではなく、「臭かろう」

人を蔑む言葉で最も相手を傷つけるのは、理がなく主観的で次元の低いものです

対話で撤回させることができないだけでなく、同じように傷つけられた人と手を携えることが難しいからです

心に刺さった「お前は臭い」と言う言葉は、やがて根を張り「俺は臭い」と言う思いに変わります

それはもはや刺でも刃でもなく、傷つけられた人の心に住みつく病変なのです

首を振って否定する乙次郎に玄蕃は「女房と同じことを言う」と笑います

乙次郎が玄蕃の妻と同じことを言ったのではなく、玄蕃が妻と乙次郎にしか言ったことがなかったのでしょう

玄蕃は蔑まれ傷つけられた過去よりも、自分の心に根を張った闇を重く背負っていたのかもしれません

 

玄蕃は嘘はつきません

余計な騒動を起こさないために方便は言いますが、嘘はつきませんでした

しかし、宿村送りのお菊が里に送り届けられた際には「将軍様がお菊の伊勢参りを聞き、貞女の鑑と感心され、自分を伴に付けられた」と嘘をつきます

そして、有り金全部を「将軍様の下賜」として村に下げ与え、お菊の向後を約束させます

玄蕃はなぜ嘘をついたのか

それは、玄蕃は否定しましたが、やはりお菊に母親を見ていたからでしょう

玄蕃の母は武士の世の理に我が子を奪われ、病没しました

一方、玄蕃は武士の世の理に母を捨て、武士の世に生きながらえたのです

玄蕃にとって将軍の名をもってお菊を救うことは、武士である自分と、武士の世、その理が母親に報い、償うことであったのでしょう

 

旅の道すがら、玄蕃は乙次郎や出会った人々にあれこれお節介を焼きます

最初のうちは世馴れた大人の知識や経験で、そうこうするうちに本来の身分も明らかになり、やがてはその人柄で人々を助けていきます

玄蕃の謎が解けていく様子は、話の展開と言えばそれまでなのですが、そうではなかったと私は思います

道中を共にするといっても、たった一月、それも流刑地への旅です

与力としての立場を崩さず鯱鉾張っていた乙次郎を玄蕃はからかいましたが、当初は玄蕃も流人という仮面を外すつもりはなかったのでしょう

旅も陸奥深くなる頃、玄蕃の流罪は冤罪どころか陥れられたという事実、旗本のご落胤との知らず貧乏長屋で育ち、突然跡継ぎとして母から奪われるように青山の家に連れてこられた身の上が明らかになります

玄蕃自身が心を開いていく過程が旅の中にあったのだと思います

 

不義密通の冤罪をかけられたとき、玄蕃は家庭にも部下にも知己にも恵まれ、幸せといって差し支えない日々を送っていました

しかし、玄蕃は己の幸せを守るために冤罪と戦うことはしませんでした

武士と武士の世に違和感を抱き続けていた玄蕃ですが、自分が武士でなくなることを望んで冤罪を被ったわけではありません

自ら青山の家を潰すことで、己の力の及ぶ限り武士と武士の世の過ちを償おうとしたのです

乙次郎との別れの迫る三厩までの道で、玄蕃はその思いを語ります

自分の人生に降りかかった一大事に、個人を超えた意義を見出した玄蕃ですが、武士と武士の世の過ちは、一武士として自らも償わなければいけないものでした

乙次郎との旅の中で、流人の衣を脱ぎ、武士の顔を見せ、旗本の力を使い、将軍の名をもって人を救うことで、玄蕃は己の武士としての償いをしたのだと思います

 

別れに際し、乙次郎は玄蕃を「新御番士青山玄蕃頭様」と呼びわります

これは流罪が冤罪であったからだけではなく、玄蕃個人の武士の罪は既に償われたからではないかと思います

これから先、玄蕃は武士と武士の世を償っていくのだろうと思います

自身は、罪人ではなく

 

この物語は乙次郎の成長物語としても面白いのですが、玄蕃が己が見出した贖罪の意義に近づいていく物語と読んでも意味深いものだと思います

 

蛇足ですが、私の願いです

この道中は万永元年の夏なのです

もう十年もしないで、武士の世は終わります(徳川の世と言ったほうが適切でしょうけれど)

家族は玄蕃のもとに駆けつけるでしょう

かつて玄蕃の薫陶に与った若い武士たちも北海道を訪れるかもしれません

玄蕃であれば、農地を開拓することも牧場を経営することも人を育てることも難しくないはずです

流人でも武士でもなく、贖罪ではない生を玄蕃は取り戻すことができるのではないでしょうか

玄蕃と出会ったことで、乙次郎も維新前後の騒乱の中で、死なない道を選んでくれるだろうと思います

彼らの道が再び交わらなくとも、乙次郎は死なない

玄蕃が冤罪で死ななかったように、きっと死なないだろうなぁと思います