作品そのものの感想を書いていませんでした
この作品を観て反省したことがいくつかあります
一つは、作品のベースに東日本大震災があったのではと思ったことです
舞台が東北であること、まきもとさんの葬儀への強い執着、まきもとさんに近しい親族がいないらしいことから、震災でご家族を失い、弔いも納得がいく形でできなかったのかなぁと思ったのです
けれども、作品自体にそう暗示するものはありませんでした
蕪木さんがぼうずに過敏に反応したこともありましたが、こちらは時系列で震災とは関係がないとわかります
現実の事件や事故、災害などと作品を重ねてみることは、たびたびあることで、実際にそれらをベースに作品が作られていることもあります
そのことによって作品に重みや深みが生まれることもあるでしょう
けれど、個人が自分の鑑賞の手立てとして、現実のそれらを用いることに、躊躇というか、逡巡というか、罪悪感があります
ありつつも、観ている時には「もしかして」と思ってしまうのです
他者の人生経験の消費ではないか?と思うのです
問題意識を持つこと、他者の痛みに思いを馳せること、それらを風化させないことは大切だと思うのですが、自分はそれをエンタメに消化するだけで終わらせているのではないかと、ご近所さんをネタに井戸端会議に耽ることと変わりはないのではないかと思うのです
まずは、それが一つ
もう一つは、蕪木さんが一酸化中毒による高次脳機能障害ではないかと思ったことです
鉱山事故では仲間を救出し、自らも脱出を果たしましたが、その後の人生には多くの綻びがありました
その原因は本来の性格かもしれない(鉱山事故以前のエピソードはないので不明)、事故のPTSDかもしれない、けれど、一酸化炭素中毒による高次脳機能障害かもしれません
PTSDであれ、高次脳機能障害であれ、蕪木さんが事故にあった時点では障害として注目されていなかったでしょうし、その後、社会から孤絶した蕪木さんにはそういう視点での支援の手は届かなかったのでしょう
そう思うこと自体は別に作品や誰かを傷つけることではないのですが、そういうことを考えちゃうから、しばしば作品の持っている流れから思考が外れていってしまうんだよなと思ったのです
もう少し、細やかな感情に心を添わせて映画を観ることはできないのかなと思った次第です
もう一つは、まきともさんが最後には亡くなったことについて、強く反発したことです
私はお話のために人が死ぬことが心底嫌いです
誰も死なないで済むお話を作ればいいじゃないのと思うのです
なので、まきもとさんが亡くなって、がっかりしました
けれども、まきもとさんが亡くならなければ、私はずっと「がんばった」「がんばった」のおばあちゃんのことを悲しく痛ましく記憶に残したでしょう
まきもとさんが亡くなってこその、あのラストで
あのラストは、まきもとさんの行いが報われたということではなく、弔われた死者が皆報われていたのだというものでした
この映画は、主役はまきもとさんでしたが、主人公が死者であったのだなと、ひとしきりぷんすか怒った後に気づきました
自分の映画を観るときの姿勢や考え方、陥りがちな思考の癖について考えた映画でした
あと、気になったのは、まきもとさんの変化です
まきもとさんは強迫神経症と思われる行動をしていましたが、津森さんと出会い、蕪木さんの葬儀を行うために多くの人々と関わる過程で、生活様式を変えていきます
強迫神経症のような疾病が「精神的なこと」で変えられるということにならないかなぁというのは気になりました
(この点からも、まきもとさんの症状のトリガーが精神的なものであって、それは震災の影響ではと思ったのです)
もちろん、医療的な治療だけが正しいわけではなく、と言って気の持ちようが全てでもないわけです
「恋愛小説家」では、メルヴィンはキャロルとの出会いによって変わりますが、キャロルとの関係を築くために「医師に処方されながらも頑なに飲まなかった薬を、あなたに出会って服用することにした」と打ち明けています
とても丁寧な作り方だなと思いました
私がどう反省したかはどうでもいいことです
「アイ・アム まきもと」はいい映画でした
演者さんが皆さん素敵で、映像も美しく、お話も良かったです