「ゴジラ-1.0」ネタバレ感想 「ゴジラとはなんだったのか」

 

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この作品には「ゴジラとは何か」を語る人物が出ていないと書きました

この時代の科学力が「ゴジラ」を究明するに足りないことはあるかもしれません

国が関わらなかったことで本部や委員会といった、場や人材がなかったからかもしれません

けれど、敷島たちはそれを考えなかったでしょうか

海中に没するゴジラを敷島たちは敬礼をもって送りました

彼らの中に「ゴジラとは何か」という問いがあり、その答えを得たことが彼らの敬礼の理由だと思います

 

この作品において、戦争は傷跡ではありません

今も生々しく血を流す傷です

その傷を「戦後」「復興」という言葉が偽物の瘡蓋として覆っています

そうして、人々から痛みを訴えることを、痛みを感じること自体を奪っています

作中に「ピンチはチャンス」という台詞があったように思います

即座に否定されていましたが

私は「アイ・アム まきもと」の「がんばったがんばったが口癖のおばあちゃん」を思い出しました

内容に触れますが、独居で亡くなった高齢女性のペットの鳥が「がんばったがんばった」と繰り返すのです

それは自分自身を褒める飼い主の口癖だと思われたのですが、登場人物の一人が違うのではないか?と言います

疲れた時に「疲れた」というと余計に辛いから「疲れた」という代わりに「がんばったがんばった」と言っていたのではないかと

当事者の「頑張る」とは、こういうことです

当事者の「ピンチはチャンス」とは、こういうことです

ゴジラは偽物の瘡蓋を破壊し、欺瞞に窒息する傷を解放したのではないでしょうか

 

初代「ゴジラ」にも人々が「戦後」「復興」に虚飾を感じている描写がありました

現在の日本は大震災や感染症パンデミックを「ピンチはチャンス」と言い、五輪を誘致し開催し、また万博を開催しようとしています

ゴジラ-1.0」は初代「ゴジラ」の正統な継承なのだと思います

 

シン・ゴジラ」は「ピンチはチャンス」という側の人々の話でした

必死で責任を取ろうと奮闘していましたが

シン・ゴジラ」の国家の中枢において責任を果たすべく足掻く人々と、「ゴジラ-1.0」の市井にあって傷の痛みにもがきつつ生きる人々が一つの「ゴジラ」として創られたら、その乖離と断絶はどのように描かれるのか、興味があります

観てみたいです