澤好摩「光源」を読む 四

ご厚意により、澤好摩句集「光源」を読む機会に恵まれました
読み進め、考えるために文章にしようと思います

音なしに雨のしろがね豊の秋

なしにに惹かれた句です
「なしに」は「雨音はないのに」という逆説にも読めますが、私には雨のしろがねという言葉に雨音は聴こえませんでした
雨のしろがねという言葉自体に、雨音はないのだと思います
そこに「雨音はしないのに」と重ねると、雨のしろがねという言葉が損なわれるように感じます
「なしに」を「音はしなくて」とし、音を雨音だとはっきりさせると、
豊の秋雨はしろがね音なしに
となります
雨のしろがねという言葉がまた損なわれてしまいます

雨音がしないとして、では別の音は聴こえるかというと、聴こえません
音なしにの音は、雨音ではないのではないでしょうか
静寂を舞台としているのだとすると、雨のしろがねに「降っている」を補うことも不要になります
音がなくなり、雨の動きがなくなり、実景が抽象化され、静寂と雨の銀、秋の金の色が心に迫ってきます