澤好摩「光源」を読む 二

ご厚意により、澤好摩句集「光源」を読む機会に恵まれました
読み進め、考えるために文章にしようと思います

乾坤や草餅に搗きあがりたる

私は「乾坤一擲」を「思いっきり叩く」ことだと思っていました
切れ字を挟んで「人が思いっきり餅を搗く」「餅が草餅に搗きあがる」と主格が変化している、この「に」に惹かれ、一日あれこれ考えて過ごし、ようやく乾坤の意味を調べたところ「乾坤一擲」は「思いっきり叩く」ことではありませんでした
「乾坤」とは、八卦の乾と坤、天地、陰陽などの意味だそうです
これらのうちのどの乾坤だろうと思う目の端に乾坤の例文が止まりました
「・・・んだ七情万景であり、乾坤の変であるが、しかもそれは不易にして流行・・・ 寺田寅彦俳諧の本質的概論」」
もしかして、この乾坤?
であれば、これを読まないといけません

…この乾坤は天地の意味でした
その点では寺田寅彦俳諧の本質的概論」は読む必要はありませんでしたが、読んで良かったです

解釈と鑑賞に移ります
乾坤は天と地でした
「や」を切れ字と読むと、天地がある、そして餅が草餅になる
詠嘆と読むと、天地よ、餅が草餅になる
どちらにしても、天地と草餅の関係を考えなければなりません
その手がかりは、やはり助詞の「に」と、主語がないことではないかと思います
「に」を用いることで、動詞が自動詞になっています
試しに主語を補うと
餅の草餅に搗きあがりたる
擬人化とも取れますが、そうではないと思います
自動詞の持つそれ自身の力強さを句に生かそうとしたのではないでしょうか
主語も省略されているのではなく、ないのではないかと思います
試しに助詞に「が」を用いると
草餅が搗きあがりたる
問題なく主語になり、自動詞が使えるのです
けれど、「に」を用い、主語を読まない
そこに、天地、乾坤との関わりがあるのです
神話では、この世は混沌が自ずから天と地に分かれて始まったと言われます
そこに万物が生じたと
草餅も同じなのです
餅と蓬を人が搗き、そうしてできた草餅、その一連を見ていても尚、出来上がった草餅に、あるものがその姿を得て世に現れることの不思議を感じた
搗きあがった草餅に俳人天地開闢を見たのではないでしょうか
そう考えると、乾坤やの「や」は詠嘆ではなく、取り合わせの「や」なのだろうと思います