「PARCO劇場開場50周年記念シリーズ 新ハムレット~太宰治、シェイクスピアを乗っとる!?~」ネタバレ感想 4

 

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続きを書くと言って、すっかり遅くなってしまいました

 

劇中、自分の身に迫るリアリティを持って恐ろしく感じたのは「戦争になると言われている」という台詞でした

正確にはどういう言い回しだったか、忘れてしまったのですが、クローヂヤス、ガーツルード、ポローニヤスが繰り返し口にしたこの台詞は、常に「と言われている」という伝聞でした

「と言われている」という言説が繰り返されることで、それは既成事実化した未来になります

ここに時間の転倒があります

実際に戦争が始まった時、人々はそれを「知っていた」こととして受け入れるでしょう

開戦に至る議論、検討、経緯を明らかにしようという意思は失われ、誰が決断を下したか、その責任を問う機会も奪われます

 

この台詞に、「昭和16年夏の敗戦」(猪瀬直樹)を思い出しました

www.chuko.co.jp

(私が読んだものは初版のもので、こちらに加筆・修正があるかわからないのですが)

「太平洋戦争開戦前のシミュレーションで日本が敗北することはわかっていた」という史実を描いたノンフィクションです

 

国家が道を誤る時、議論がなかったはずはないのです

けれど、それら議論や経緯、誰かが決断を下したはずの時間を「と言われている」という言葉がなかったことにしてしまうのです

「と言われている」は、世論の醸成でさえありません

未来の押し付けであり、現在の破壊であり、過去の抹消なのです

 

話を劇に戻します

二つの家族にとって、この戦争はどういう役割を果たしたのでしょう

クローヂヤスは、なかった戦争を作り出して王座奪取の機会を得、その戦争で王座を不動のものとしたのかもしれません

或いは、戦争という機会に、王座と王妃奪取を唆されたのかもしれません

「戦争になると言われている」という言葉が人の暗い欲望を刺激し、膨らませ、平時であればしないはずの決断に導いたのかもしれません

 

この「こうだったかもしれない」クローヂヤスに太宰治の「トカトントン」を思い出しました

www.aozora.gr.jp

内容はあまり覚えていないのですが(青空文庫を貼り付けるんだったら、まず読めっていう話ですが)、以前に観たNHK太宰治について語り合う番組で「当時、読者にこの作品が受け入れられたのは、人々の間に戦争の予感と閉塞感があったからだ」という意見がありました

 

*私、間違いを犯しておりました
トカトントン」は終戦直後の話ですね
別の作品についての話だったかもしれません

 

私はそのような予感を得るのは芸術家など限られた人々だけなのでは?と思っていました

けれど、この数年、私はとても苦しいです

なんでもない人間、むしろ無神経な人間である私が苦しい

この何かわからないけれど何かがある状況を「何か」にするのが芸術家などなんだなと思いました

私はその「何か」にもっと誠実に向き合い、意味を探る努力をしなければいけないんだなと思いました

その「何か」が、この劇であったのだと思います

 

クローヂヤスも予感を得たのでしょう

そういえば、クローヂヤスは「兄も私も子供の頃は大人しくて云々」(正確な台詞は忘れてしまいました)と言っていました

成長するに従い、兄は王となるべく鍛錬を積み、強い精神と肉体を得、私は弱々しいまま、今に至るといったことも言っていました

クローヂヤスが持ち続けた弱さが彼に予感をもたらしたのかもしれません

そう思うと、太宰治の影はハムレットではなく、クローヂヤスにあるのかもしれません