劇場版おっさんずラブ LOVE or DEAD 〜ネタバレ感想〜

観てきました!

物語は、春田と牧の恋の行方(に部長の純愛)に、湾岸リゾート開発を巡る第2営業所と本社の対立から、巨悪を暴くサスペンスアクションが絡む、気宇壮大なシンプルストーリー

どちらも着地点は見えているので、安心して振り回されることができます

これで2時間って、打撃の神様川上哲治さんの「ボールが止まって見えた」くらいの境地でなければ、映像の隅々、台詞、音の一つ一つまでなんで拾えません

何回かご覧くださいね!ってことですね

もちろん、一回の鑑賞でも十二分に楽しいです

 

一番すごいなぁと思ったことは、ラストで春田と牧が結婚式を挙げないことです

おっさんずラブ」は今より少しだけ未来の話とされていますが、その少しだけ先に進んでいるのは人の心

社会制度や法律が変わるには至っていません

法律として同性婚は、まだ認められていないからです

もし、春田と牧が結婚式を挙げるラストだったら、それは「おっさんずラブ」の嘘になってしまいます

このドラマは「人を愛する」「人に愛される」という純粋な想いを全ての人が共有できる「偏見なく人を愛すること」「偏見なく人に愛されること」「偏見なく、人を愛し、愛されることを認め、応援すること」を描いています

「春田と牧に幸せになってほしいなぁ」と願うとき、一人一人の心が、そういう想いで満たされるとき、その気持ちは自ずと社会に向かっていくのかもしれません

 

それと呼応するのが、天空不動産会長速水禮次郎に向けられた狸穴の言葉ではないかと思います

「自分たちの仕事は一人一人を幸せにすることだったはず」

湾岸リゾート開発計画は数百万の人を幸せにするという名目で、百人に満たない地元の人の幸せを踏みにじるものでした

「多数のために踏みにじられてもいい少数」なんて、いないのです

 

こういう見方は穿ちすぎで、製作者の思うところではないかもしれませんが、この「不動産屋とは」という言葉が「テレビ局とは」「マスメディアとは」と通底しているように感じました

おっさんずラブ」は「一人一人の心に届くよう」「そしていつか社会が変わるよう」に観客に語りかけていますが、狸穴の言葉は一人一人を人々という集団として、或いは一塊りの数として扱える職業、立場にいる人間に対して放たれているように聞こえたのです

 

結婚式を挙げないことについては、他にも「おっさんずラブ」のリアルとけじめがあるように思います

連ドラで、黒澤部長は「愛に形が欲しくて」春田との挙式を願います

でも、春田が選んだのは形ではなく気持ちでした

ずっと一緒にいたいという気持ち、それは春田の「結婚って何?」の答えであり、「俺と結婚してください」という言葉になります

春田にとって「結婚」は自分の気持ちを最大限に表現する言葉であり、行為なのでしょう

でも、牧にとってリアリティがあったでしょうか

春田のこれまでの普通の人生の中で導き出した最高の結論は、それほどに想っているという気持ちこそ伝われど、牧の現実と比べると、あまりにも「普通」なのです

連ドラ最終回にして、まだ春田は自分の普通の世界から牧の現実へは辿り着いていなかったのです

 

ただ春田が普通であることは、牧の救いであったはずです

春田が牧と同じ普通ではない世界を普通ではないという自覚を持って生きようとしたら、それは牧には苦痛ではないでしょうか

炎の中で春田は牧に「(二人の子供は持てないけれど)俺は子供好きだし」と言います

今は法律としては結婚もできません

けれど、それは「普通じゃない」ことでしょうか

子供を持つ、持たない、血縁のない子供を持つ、入籍する、しない、それは一つ一つ普通だとか、普通じゃないとか断じるべきことでしょうか

春田の言う「牧じゃなきゃいやだ」、それこそが「おっさんずラブ」だと思うのです

 

ラストで二人はそれぞれの夢に向かって歩き出します

それは、二人が家族への道を歩み出したということなのだと思いました

 

 

黒澤部長のこととか、まだ書きたかったのに、長くなっちゃった

明日以降、じわじわ続きます